現代人から見て古臭くなった過去の因習を変革しようとする発想を「革新主義」といいま~す。
たとえば、「妖怪が出るから誰もあの森に入るな」という伝説に脅えずに森に入った勇敢な若者が、ライバルのいない状況下で大儲けをするようなストーリーは、この革新主義の発想を体現しているといえましょう。
これに対する「保守主義」という発想も世の中にはありま~す。これは、長らく続いてきた制度には深い意味があることが多いので、現代人の狭い視野での判断で制度を変えると予想外のマイナスがあるかもしれないので、変革は慎重にすべきだという発想で~す。
たとえば、「俺は妖怪なんか信じないぞ!」と宣言して古老の言いつけを無視した近代合理主義者が、後で予想外の大損をするようなストーリーは、この保守主義の精神を体現しているといえましょう。
伝統的な作法には、深い意味があるからこそ淘汰されずに残ったものと、大した意味もないのに偶然残ったものとがあるので、一概にどちらの主義が正しいともいえませ~ん。
以上の観点から村王クリフゲーンを分類すると、「穏健な革新派」といえましょう。偶然敗死したガガベスの遺族が迫害される様子を見てランガーオ村の慣習に疑問を持ったものの、新チャンピオンの立場でいきなり敗者にも敬意を持てと命じるのではなく、徐々に人々の意識を改革していき、20年以上かけてランガーオ村の常識を変えました。
この改革は復讐鬼ガガイ問題の解決には資したので、「功」の側面はあったといえましょう。
しかし「罪」も多分にあったといえま~す。
まず狂鬼ジーガンフ事件は、明らかにこの改革と因果関係がありま~す。
敗者も一定の敬意を受ける村だったからこそ、アロルドは大会でジーガンフに意図的に敗けるという選択への敷居が下がったのでしょうし、ジーガンフはアロルドが十分な罰を受けていないと感じたから「戦いの神に代わり このオレが お前に 天罰を与えてやるぜぇぇぇえええ!!」という気分になってゾンガロンと契約してしまったのでしょう。
ランガーオ村はゾンガロンの復活を阻むために1200年(改変後は1300年)続いてきた村ですから、一見すると理不尽な伝統も、ゾンガロンと通謀する者をなるべく輩出しないために創られた歴史の知恵だったのでしょうね~。
狂鬼ジーガンフ事件自体は軽い騒動ですんだものの、ランガーオ村が「勝者のみを尊ぶ」という単純な価値観を回復しない限りは、色々と余計な思考に耽る者が次々に登場し、そこをゾンガロンに利用され続けたことでしょう。そしてやがて何人目かの狂鬼により、封印は解かれたことでしょう。
しかしクリフゲーンの評価にとって極めて幸運なことに、パドレが強制的にゾンガロンを復活させさらにすぐに謀殺しました。これにより「クリフゲーンが創った新しい風潮のせいでゾンガロンがよみがえってしまった」という、本来ならばほぼ必然だった事態は、実現する前にその可能性が突然消えました。
結果論だけでいえば、バージョン4.2以後にふさわしい村を20年以上前から作っていたということになり、クリフゲーンはとても正しい選択をしていたということになりま~す。
ただし非常に皮肉な話ですが、「理論はどうあれ、結果的にクリフゲーンの政策は正しいことになったのだから、彼は偉大な政治家として評価されるべきだ」と評価することは、「ステータス上はどうあれ、結果的にガガベスはクリフゲーンに負けたのだから、彼は弱者として蔑まれるべきだ」という論法と相性が非常によいといえましょう。
天地雷鳴士もまた近年伝統を捨て、「陽衆」と「陰衆」というくくりを廃止しました。
これは陰衆の人権という点では「功」といえましょう。
しかし長い伝統を廃止した歪みが出ないとも限りませ~ん。
たとえば、以前天地雷鳴士の職業クエストとの類似性を指摘した*1、賢者の職業クエスト*2を思い出してみましょう。
このクエストでは、個人のレベルで「光」と「闇」の調和がとれておらず、どちらかに偏っている者には、賢者としての才能がないとされていました。
こういう理由で賢者として大成できなかった者の中には、かつての天地雷鳴士に再就職して大成した者もいたことでしょう。何しろ、個人レベルでは「陽」か「陰」に偏ることが推奨され、調和なんていうものは集団レベルでカミハルムイ王家の下ですればいいという発想でしたから。
しかし今後こういう賢者くずれは、「あなたみたいに偏った人がいると、やがてまた分業体制が盛んになり、それは特定の業務への差別を生むから、ここでも採用しない」と天地雷鳴士集団からも通告されかねませんね。
そういう人たちが才能を発揮できる場所が他にもあればよいのですけど…。