1.魔王の原義と変遷
「魔王」という漢語は、仏教においては「人間より偉大だが仏未満」程度の地位の一つを意味していました。中でも有名なのは第六天の魔王の波旬であり、漢字圏のお経で特に説明なく「魔王」と出てきたら大抵は波旬で~す。
第六天とは「他化自在天」とも呼ばれま~す。そこの住民の設定には様々な説がありますが、中には「他人を幸福にし、それを自分の幸福にしてしまう」というものがあり、そのために「だから欲から解放されて仏に成ることを目指す者との相性が悪い」というイメージも付着してしまいました。
これを無理に日常にたとえるならば、「他人に酒を奢ったり未成年には飴をあげたりして、そのことで自分もハッピーになる成金のおっちゃん」といったところで~す。ただの酒飲みや飴好きにとってはありがたい存在ですが、「禁欲して真面目に働き、やがてはこのおっちゃんよりもビッグになって、おっちゃん以上に立派な慈善事業をしたい」と思っている若者にとっては、ある意味での「敵」で~す。以下、こういう飴で堕落させる魔王を「飴の魔王」と表記しま~す。
日本ではこの「ある意味での敵」という部分が徐々に強調されていき、「魔王」を単に「悪辣に人々を苛める超人的な能力を持った王」という意味で使う人が僧の中にすら増えていきました。以下、こういう意味の魔王を「鞭の魔王」と表記しま~す。たとえば過去記事「織田信長はムドーの有力な元ネタであると思いま~す」で紹介した寶光山金西寺蔵『當寺御開山御真筆』は、僧が書いた文でありながら、「六天魔王」を単なる鞭の魔王のような意味で使っていま~す。
そういう意味の変遷があったため、近現代の日本においては外国語の翻訳でも創作作品でも「魔王」は基本的に鞭の魔王の意味で~す。たとえばゲーテの詩『魔王』の題名や『チャージマン研!』のジュラル星人のボスで~す。
2.伝統的な大魔王ゾーマにおける原義の萌芽
2-1.鞭の魔王としてのゾーマ
『ドラゴンクエスト』のラスボスの称号は「竜王」であり、『II』では「大神官」でした。そして1988年2月に発売された『III』で初めて「(大)魔王」という概念が登場しました。
これはアキーラ神の『ドラゴンボール』で、『少年ジャンプ』の1987年36号に掲載された「其之百三十五 クリリンの死 そして恐ろしき陰謀」*1から「ピッコロ大魔王」という強敵が登場したので、それとの緩やかな意味でのコラボであった可能性もありま~す。
この『III』の「魔王」概念は、基本的には日本で発達した「鞭の魔王」を踏襲していました。バラモスもゾーマも単なる破壊者であり、世界の半分の支配権を餌にしてきた竜王のほうがよほど「飴の魔王」に近いで~す。
2-2.ゾーマにおける飴の魔王の二つの萌芽
しかしながらそれでも、実は密かに仏教の原義的な「飴の魔王」の復興の兆しが見えま~す。その痕跡を星月夜は二つ見つけました。
第一には、『III』における仏教の影響で~す。
過去記事「「ダーマ神≒仏陀」仮説を発表しま~す」では『III』のダーマ神殿への仏教の影響の強さを語った上で「このダーマ神殿を上手に利用して強くなると、バラモスを倒しやすくなりま~す。このバラモスには、カースト制度を前提とした宗教「バラモン教」のイメージが投影されているのかもしれませ~ん」と語りました。
このときは「しれませ~ん」程度だったのですが、過去記事「『ドラゴンクエストIX』と『ドラゴンクエストX』の間におけるグランゼニスの変質を、『妙法蓮華経』提婆達多品から読み解きました。「時の王者」という奇妙な称号の由来もこれで判明しました」や過去記事「ベホマの「インドでは仏陀(悟りを得た人)のみが使うことができる呪文といわれています」という設定について」を経て、これは確信にまで至りました。
だから賢者がいると「魔王バラモス」や「大魔王ゾーマ」を倒しやすくなるのも、おそらく原義のほうにあった「仏教とある意味で対立する存在」という飴の魔王の影響が見てとれま~す。
第二には、彼の幸福感についての伝承で~す。
ラダトームの住民は「まおうは ぜつぼうを すすり にくしみをくらい かなしみの なみだで のどをうるおすという」と語り、『ドラゴンクエストX』の公式イベント「大魔王ゾーマへの挑戦」*2でも僧侶のマゴットが「大魔王は 絶望をすすり 憎しみを喰らい 悲しみの涙で ノドを うるおすといいます」と語っていました。相当強固な設定といえましょう。
この設定は「他人を不幸にし、それを自分の幸福にしてしまう」ものであり、原義の第六天魔王の「他人を幸福にし、それを自分の幸福にしてしまう」とはちょうど逆ですが、ちょうど逆だからこそ制作陣が自覚的に参考にした可能性が高いので~す。
3.『ドラゴンボール』で先行した二つの魔王概念の統合
さて前述のアキーラ神の『ドラゴンボール』では、「日本の伝統的な鞭の魔王」と「仏教の原義的な飴の魔王」という二つの概念の統合が行われました。
『少年ジャンプ』の1988年14号に掲載された「其之百六十四 神様登場」では、武力で世の中を脅かした鞭の魔王であるピッコロ大魔王と、神龍に人の願いを叶えさせていた飴の魔王である神様とが、本来は一体であると語られたので~す。
しかも神龍によって欲望がかなえられることは必ずしも地球人にとって良いことではなかったことまで語られたので、これはもうほぼ確実に「仏教の原義的な飴の魔王」が意識されているといえましょう。
そして1992年10号の「其之三百六十 神と大魔王の融合」で、二人はまた一人へと戻りました。
4.『VI』における二つの魔王概念の統合
これに遅れて、1995年12月発売の『ドラゴンクエストVI』でも二つの魔王の概念が統合されました。
4-1.デスタムーアの部下や手法
まずは「鞭の魔王」の伝統に忠実に武力で人々を苦しめる魔王ムドーが登場しました。
これを倒すと次は「飴の魔王」の手法に似た甘言で人々を騙す魔王ジャミラスが登場しました。
さらに戦いを続けていくと、大魔王デスタムーアが自分の勢力圏に来た者にはまず絶望を与えて最大HPを1にしてから、絶望の町の住民にしていました。絶望の町はまるで『III』のメルキドのような有様だったので、これはゾーマの表層である「鞭の魔王」の手法であったといえましょう。
その一方で何らかの理由で絶望しなかった者については、欲望の虜にして欲望の町の住民にしていました。これは「飴の魔王」的であるといえましょう。
部下といい本人の手法といい、デスタムーアこそ「日本の伝統的な鞭の魔王」と「仏教の原義的な飴の魔王」という二つの概念の統合するものといえましょう。
4-2.デスタムーアとは「二を一に統合する者」
デスタムーアによる魔王の二大概念の統合は、おそらく単なる偶然ではなく意識的なものでした。その証拠にデスタムーアは魔王概念に限らず「対極的な「二」に分かれていたものを、自己に都合よく「一」へと統合する者」として描かれているので~す。
まず彼は夢の世界を具現化し、さらにその夢の世界と下の世界との間に狭間の世界を作り、それによって両世界を併呑しようとしていました。つまり「対極的な二世界に分かれていたものを、自己に都合よく一世界へと統合する者」でした。
さらに最終戦闘でも、第一形態では「はげしく燃えさかる炎」になる右手側の玉と「いてつく冷気」になる左手側の玉という対極的な二つの玉だったものが、第二形態では一体のモンスターになりました。つまり「対極的な二玉に分かれていたものを、自己に都合よく一体へと統合する者」でした。