0.はじめに
カーラモーラ村の浄月の間の前には、「フス」という名の老人がいて、浄月の間の月光の解毒の効能について語ってくれま~す。
闇の領界におけるキリスト教の影響力の強さについては、「キリスト教的原罪論が漂う冥闇の塔を攻略し、メシアとなりました」という記事や「先祖の罪のせいで苦しんでいるから「辺獄」なので~す」という記事で語ってきました。
そして「フス」という名は、発音困難なのが原則である一般の竜族にしては発音しやすいことも考えあわせると、この老人はまず間違いなくカトリックの改革を目指した"Jan Hus"(1369?~1415)の影響があるとみて間違いないでしょう。
日本語表記だけだと、元ネタである歴史上の人物の「フス」とカーラモーラの住民である「フス」の区別がつきにくいので、以下歴史上の人物のほうを"Hus"と表記し、カーラモーラの住民のほうを「フス」と表記しま~す。
Husの名前は高校の世界史でも習うので、ここまでは自力でたどり着けた考察者も多かったかと思われますが、残念ながらこのテーマでまとまった記事を書いているブロガーは見当たりませんでした。
話題としてはかなり旬がすぎてしまいましたが、本日はHusの著作"De ecclesia"『教会論』が浄月の間に与えた影響について考えてみたいと思いま~す。
1.浄月の間の教会としての性格のカギを握るのは、カイラム村長のカギ
Husの『教会論』の影響があるといっても、カーラモーラ村には入口周辺に本物の教会があるので、「影響があらわれるとしても、本来ならそちらのほうの教会においてではないか?」という疑問を持たれたかたも多いかと思いま~す。
そこでまずは浄月の間が教会でもあるということを証明していこうと思いま~す。
多くのキリスト教では、『新約聖書』のマタイ福音書16章におけるキリストの発言を元に、キリストが一番弟子のシモンに「岩や石」を意味する「ペトロ」という名を与えて、その上に「教会」を建てるための岩と見立て、天国のカギを預けたと考えていま~す。だから宗教画や民間説話等でも、聖ペトロは天国の門番として登場することが多いので~す。
「天国のカギ」と聞いて『ドラゴンクエストX』内で思い出されるのは、ワギ神の御子であるパチャティカの協力を得てカイラム村長が製造した「楽園のカギ」ですね~。
そして施設としての教会・カイラム村長の家・浄月の間は一直線に並んでいま~す。
ここに、「天国のカギ≒楽園のカギ」・「聖ペトロ≒カイラム村長」・「生前のキリスト≒パチャティカ」・「神≒ワギ神」・「聖ペトロの上に建てられたローマカトリック教会全体≒カイラム村長より高い所にある岩の上の浄月の間」という対比が成立するわけで~す。
Husが『教会論』で論じたのは抽象化したローマカトリック教会全体についてなので、Hus思想が反映されていて入口にフスが立っているのが具体的な教会ではなく浄月の間の前であるというのは、この対比の図式から考えるならば至極当然ということになりま~す。
暁月夜「なるほど。だから「てんのもんばん」は「うごくせきぞう」の色違いだったのか!」
2.人を四種類に分けるHus思想の影響
Husは人を二種類の二分法を使って四種類に分けま~す。
第一の基準は、「最終的に救われるか否か」で~す。
第二の基準は、「その瞬間、キリストの教会に属しているか」で~す。
生涯を敬虔なキリスト教徒としてすごす人とかは両方とも満たし、生涯キリスト教に敵対的だった人とかは両方とも満たさないわけで~す。
そしてキリストを迫害していたころのパウロとかは、第一の基準を満たすものの第二の基準を満たさないわけで~す。裏切る前のイスカリオテのユダとかは、第一の基準を満たさないものの第二の基準は満たすわけで~す。
ここでメインストーリーで最初にフスに会ったときのセリフを思い出してみましょう。
「ここは 浄月の間……。 カーラモーラ村の聖地ゆえ 本来ならば よそ者を 入れるわけにはいかん。 ……じゃが お前のことは サジェからも 聞いておる。 あの 傷ついた娘は お前の知り合いなのだな。 よかろう。入るがよい」
この短い文章には強烈な違和感がありますね。
闇の領界では他の村は滅んでいるという設定で~す。他の領界についてはプレイヤーが行けない範囲にさらに別の村々がある可能性が残っていますが、闇の領界についてはカーラモーラのみが居住地なので~す。数千年の間に「よそ者」という概念も滅び、つい数ヶ月前にナドラガ教団と出会って久々にその概念が生じかけたころでしょう。
それなのにフスは「本来ならば」などという「よそ者」に関する古臭そうな掟を振りかざしてきました。しかも結局はサジェ君一人の発言を根拠に例外を認めていました。
物語の設定からすると不自然な、このフスの「よそ者」という概念に程々にこだわる態度は、Hus思想だと考えれば納得がいきま~す。
まず第二基準「その瞬間、キリストの教会に属しているか」を振りかざして「よそ者」を排除する原則を示した上で、「よそ者」だった者もそうでなくなる場合があるという第一基準の援用で中に入れてくれたのでしょう。
ここでさらにもう一つ疑問がわいたかと思いま~す。「フスのような老人が、なぜ年少者で村の役職も持っていないサジェ君を助けた異邦人のそのまた知り合いというだけで、よそ者認定を解除してくれたのか?」と。
これについては次章で明らかにしましょう。
3.よき教皇としてのサジェ
カトリックにおいては、ローマ教皇をペトロの後継者とみなしま~す。
堕落した教皇を批判し、宗教改革の先駆者とみなされるHusも、まともな教皇は教会の指導者として認めていました。Husは教会を人体にたとえることが多いのですが、教皇は教会の頭にあたるものだとしていました。
そういうわけで、ペトロにあたるカイラム村長から後継者として目され、楽園のカギを事実上移譲されることになるサジェ君は、Hus思想においてはよき教皇にあたるわけで~す。この時点ではまだカギを譲り受けていないことを重視しても、次期教皇の最有力候補たる枢機卿ぐらいの立場ではあるわけで~す。
そのサジェ君を救ったマイユさんは異邦人出身とはいえ教会に対する大功労者であり、そのマイユさんの知人とサジェ君から認定された主人公もまた、フスにとっては準同胞認定の対象になったのでしょう。
サジェ君が浄月の間の中央付近にいるのも、彼の教皇としての地位を示しているといえま~す。
4.人体と排泄物の比喩を現実に転化
Husが教会を人体にたとえることは前述のとおりですが、裏切る前のユダや劣悪なキリスト教徒のように「教会に属してはいるが、最終的には救われない」タイプの人を、尿のような排泄物にたとえていました。
「そのときは教会の中に所属してはいるけれども教会の一部ではなく、やがては排除される存在」を「そのときは人体の中に蓄えられているけれども人体の一部を構成せず、やがては排泄される存在」にたとえたわけで~す。
この比喩を転じて現実にしたのが、浄月の間の機能で~す。
ある人とその人をむしばむ毒とが同時に浄月の間に入っていき、やがて神を淵源とする月光によって毒だけが人体から去るというわけで~す。
5.まとめ
浄月の間は、Husが『教会論』で語った理想や比喩を元ネタにして作られた空間である。
ストーリーや設定上は奇妙に思われるフスの言動は、それを前提にして解釈をすると納得がいく。
参考文献