ほしづくよのドラゴンクエストX日記

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バラモスがアレフガルドの一般人からも軽視される理由を考えました。

1.アレフガルドでのバラモス軽視

 『ドラゴンクエストIII』でバラモスを倒してからアレフガルドに行くと、ラダトームの一般人が「バラモスなど だいまおうゾーマの てしたの ひとりに すぎませんわ」とバラモスを軽視する発言をしてきま~す。

 「てしたの ひとりに すぎません」からは強大な同輩の存在が想定されましたし、「ぶか」ではなく「てした」という表現からはバラモスとゾーマの実力の差が想定されました。

 ところが最後までバラモス以上に手強い手下は登場せず、ゾーマもバラモスと比較して異常に強いというほどではありませんでした。

2.「率いる集団の強さ」の視点

 そこで過去記事「『ダイの大冒険』で、後にバランに負ける程度のヴェルザーが、一度は老バーンと魔界の覇権を争えた理由について」で提唱した、「有力者の個体としての強さとその者が率いる集団の強さは別物」という観点を導入してみま~す。

 この記事に対しては「作者はそこまで考えていないのでは?」という批判もありました。

 しかし『ダイの大冒険』では、バーン・ヴェルザー・バランの三勢力間以外でも、しばしばこの観点が強調されました。

 たとえば序盤の六大軍団と人類との戦争では、ミストバーンが率いる魔影軍団こそが一番戦績が悪かったので~す。最強の超竜軍団は二ヶ国を滅ぼし、氷炎魔団は一ヶ国を滅ぼし、不死騎団と百獣魔団はそれぞれ一ヶ国を滅ぼしかけました。妖魔士団は具体的な戦勝の記録がありませんが敗退の記録もありませ~ん。完敗したのは魔影軍団のみで~す。

 作者もちゃんと「魔影軍団は最弱」と記憶していたからこそ、のちにその最弱の魔影軍団の長であるミストバーンが他の軍団の手を借りずにサミットを襲撃する際に、鬼岩城という追加の兵器を用意したのだと思いま~す。

 そしてこのミストバーンこそが、個人としての戦闘能力では総大将の老バーンすら超えていた最強の将でした。

 バラモス軍団もまた「最強の将が率いる最弱軍団」といえま~す。

 ネクロゴンド城に住むモンスターたちはバラモスの部下の中でも高い地位にいそうですが、彼らはアレフガルドのフィールドモンスターの大半にすら劣る戦闘能力で~す。アレフガルドでは二匹組でフィールドをうろついている雑魚のうちの一匹であるボストロールが地球にくると、それだけでもうバラモス軍団の大幹部になれてしまいま~す。

 以上の事実にこそ、バラモスがアレフガルドの一般人にすら軽視された理由のヒントが隠れているのではないかと考えました。

ゾーマにとって地球とは追放先であった

 ゾーマが本気で異世界たる地球を征服したかったのであれば、やまたのおろちが討たれたあたりで増援を送ることでしょう。また余興で遠隔からでもアリアハンの兵士多数を殺せる程度の力はあるのですから、ロトとバラモスの最終決戦中に多少はバラモスの支援をするだけの能力も余裕もあったはずで~す。

 そうであるのにバラモスは最後まで見殺しにされました。

 ゆーえーにー、ゾーマには地球への征服欲はあまりなかったのでしょう。

 つまりバラモス率いる地球侵攻軍団とは、やまたのおろちなどの極一部の例外を除けば「口減らしのために異世界に追放された役立たず集団であった」と考えるべきで~す。そんな連中でも異世界を征服できたならばそれもよし、現地で全滅してくれたならばそれもよし、というわけで~す。

 そしてバラモスとは、そういう役立たず集団を率いて外征をするという厄介な任務を押しつけられた不遇な立場の幹部だったというわけで~す。何か失態を犯して左遷されたのかもしれませんし、ゾーマを脅かすほど強いから事実上の追放をされたのかもしれませ~ん。

 それならば、アレフガルドの民から軽視されるのも当然で~す。「あの一騎打ちだけ得意だったバラモスって最近見ないと思っていたら、異世界に派遣された挙句に現地で死んだのか」と。

 バラモスはおそらくネクロゴンドとテドンの破壊の時点で当初与えられていた軍を消耗し尽したのでしょう。地球に来て10年以上経過しても、「せかいの ひとびとは いまだ まおうバラモスの なまえすら しらぬ」という有様で~す。地球の民のこうした態度は、ある意味で「てしたの ひとりに すぎませんわ」以上の軽視で~す。

 そこでバラモスなりに必死で考え、「軍団としての弱さ」と「それゆえの司令官の知名度の低さ」とを逆に利用して、テドン以後は力攻めを極力回避して謀略を侵略の手段の中心に据えたのだと思いま~す。

4.人類史の類例

 人類史でもこれと似た話がありま~す。

 『漢書』李広利伝によると、漢の武帝は寵姫の兄にあたる李広利を弐師将軍に任命して大宛を攻めさせました。武帝はのちの第二次遠征では本気になりますが、第一次遠征の時点で李広利に与えた軍は、属国の騎兵六千騎と諸国の「悪少年」数万人でした。

 この第一次大宛遠征では李広利は当然ながら苦戦を強いられ、兵の約85%が失われました。そこで皆で逃げ帰ろうとすると、武帝は「玉門関から内側に戻ってきた者は死刑」という冷酷な命令を下しました。

 よってこの第一次遠征は大宛側の勝利といえますが、ここでもし大宛の英雄が漢の事情をより詳細に知っている緩衝国を相手に楽観的な大言壮語をしたら、その緩衝国は「弐師将軍李広利に圧勝したですと? でも李広利など、皇帝劉徹の手下の一人に過ぎませんぞ」と忠告することでしょう。仮に李広利が個体としては漢族中で最強の戦闘力を持っていたとしても、やはりそう言うことでしょう。

 ジパングでも属国や亡国の兵が混じった蒙古の船団を撃退したことをもって「我々は、当時世界最強であったモンゴル軍に勝ったこともあるので、偉大だ」と誇る人がいますが、東征都元帥忻都など皇帝忽必烈の手下の一人に過ぎませ~ん。