ほしづくよのドラゴンクエストX日記

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サブストーリー「大盗賊の伝説」の解釈 その2 「"the illusion of self"としてのリルグレイド」説 これでリルグレイドの設定・カンダタの特技・漆黒のノートの意義を全部まとめて説明できちゃいました。

0.本稿の性質

 昨日の記事の続編で~す。

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に頼った第一の解釈では、全体的にそれなりに筋が通ったものの、最後の最後に説明のつきにくい部分が出てきてしまいました。

 そこで『蜘蛛の糸』のさらに原作であるPaul Carusの"The Spider-web"までさかのぼり、第二の解釈を構築しました。

 そこからラゴスの漆黒のノートの分析までおこないました。

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1."The Spider-web"の紹介

 この話は"Karma A Story of Buddhist Ethics"という本の一つの章で~す。こちらのリンク先から読めま~す。リンク先にある本のページでいうと、25ページから31ページで~す。

 この話の主人公を本稿では"Kandata"と表記し、芥川の「犍陀多」や『X』版カンダタと区別しま~す。

 Kandataが後ろからくる罪人たちの重さを怖れて"It is mine!"(「これは俺様のものだ!」)と叫んだ瞬間に蜘蛛の糸が切れて、Kandataが地獄に逆戻りというあたりは、『蜘蛛の糸』と同じで~す。

 しかしこの物語は初期仏教の精神を重視した作品なので、『蜘蛛の糸』では糸が切れた理由が「無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて」と書かれているのに対し、"The Spider-web"の語り手は"The illusion of self was still upon Kandata."(自己という幻想がKandataにまだ残っていた)ことが理由だとしていま~す。

 初期仏教では「自己(アートマン)なんてものは幻想だ」という考え方を重視していま~す。

 感覚その他の相互作用として「意識」と呼ばれるあやふやなものが存在している気がするせいで、その意識は自分こそ確固としたかけがえのない大切な存在だと思い込み、その「自己」なるものを偏愛するせいで様々な苦しみが生じるので~す。その苦しみを比喩的に表現したものこそ「地獄」なので~す。

 そんな自己なんてものは幻想だと気づけば、「大切な自己様にさらに一億ゴールドを与えてあげたい」という永遠に満たされない欲望の地獄から離脱できるわけで~す。

 ちなみに儒教の主張する「克己復礼」というスローガンも、これとまったく同じではないものの、かなり近い所を指していると思いま~す。

 物語の語り手は僧でありながら、物語の結びに"What is Hell? It is nothing but egotism, and Nirvana is a life of righteousness."(地獄とは何か? それは自己中心的な思考様式に他ならない。そして涅槃とは、正しい生き様なのだ)と、語っていま~す。方便の種明かしをここまで極端にやってしまうと、もはや宗教家というより思想家といった感がありますね~。

2."The Spider-web"の観点からの解釈

 以上のような内容の"The Spider-web"を素材に「大盗賊の伝説」を解釈すれば、『X』版カンダタは、「犍陀多と違って、他者に惜しみなく施しをしたから、高みに上れた」(第一解釈)のではなく、「Kandataと違って、他者に惜しみなく施しをするぐらい寡欲だったから、高みに上れた」(第二解釈)ということになりま~す。

 この第二の解釈によってのみ、「カンダタが上りつめた場所に敵であるリルグレイドがいて、そのリルグレイドの肉体はカンダタの千年前の先祖をモデルに設計されたもの」という設定が説明できま~す。

 初期仏教の目指す精神状態にほぼ完全なレベルにまで近づいたカンダタが最後に倒すべき相手は、当然ながら"The illusion of self"すなわち「自己という幻想」で~す。だからこそ、カンダタのそっくりさんのジンダタのそのまたそっくりさんのリルグレイドが敵として現れ、それを倒すことで宇宙船から脱出(≒解脱)できるという話の流れになったと解釈すれば、完全に原典に一致しますね。

 しかもこの戦いでカンダタが使う特技である「HPリンク」と「MPリンク」は、「自己」と「他者」の境界を曖昧にするもので~す。キラキラ大風車塔で戦ったころのカンダタはこれらの特技を使えませんでした。これこそ、初期仏教の悟りにカンダタが近づいたことを象徴していま~す。

 そして「必死にあやまっている!?」時のポーズは、仏教徒仏陀を拝んでいるポーズにそっくりで~す。

 一方でキラキラ大風車塔での戦いのころには無駄行動ではなかった「マッスルポーズ」が無駄行動となり、「自分のカラダにみとれている!」と表示されま~す。自分にみとれてしまうことが困難な状況を引き起こしてしまうというのは、まさに「自己という幻想」が乗り越えるべき壁であることを、リルグレイドとは別の形で表現したものだといえま~す。

 以上の「カンダタは自己(という幻想)と戦い、勝ったのだ」というもの以外の解釈では、「カンダタによく似た先祖のジンダタ」と「ジンダタをモデルに設計されたリルグレイドの肉体」という設定に合理的意味を汲み取ることは、ほぼ不可能かと思われま~す。

 そしてこちらの解釈だと、「月世界の美女との結婚」・「月世界の王に即位」・「不老不死」という「極楽」的な世界を拒絶したのも、「極楽に二歩足りない」のではなく、「解脱によりそうした快楽すら不必要となった」とみなしたほうがよさそうで~す。

3.漆黒のノートの意味

 そしてこの「"the illusion of self"の否定こそ初期仏教の目標であり、Kandataと違ってカンダタはそれを成し遂げたのだ」という解釈によってこそ、「入団! カンダタ団」に出てきたラゴスの漆黒のノートの意義も理解できま~す。

 「宿命……神と悪魔に引き裂かれし自我。 盗みという快楽……背徳の美酒に魅せられし魂は 夜毎 肉体という戒めを操り 罪へと駆り立てる。 甘き罪……呼び醒まされる血が 漆黒の闇に罪人を微笑ませ……宿業が刻まれる!! 今宵も! 今宵も!! 今宵も……」

 ラゴス本人の態度から、この詩は単なる若者の戯言と解釈されていますが、いたるところに仏教を連想させるキーワードがちりばめられていま~す。

 まず「宿命」は「しゅくみょう」と読むと仏教用語となり、「前世」などの意味になりま~す。前世で輪廻転生からの解脱に失敗したから今世があるのであり、これを冒頭に掲げることで「私の解脱失敗記」というテーマが浮かび上がりま~す。

 「神と悪魔に引き裂かれし自我」は、「自己」が多様な要素の一時的な集合体にすぎないことを気取って表現している雰囲気がありますね。

 「(前略)魂は(中略)罪へと駆り立てる」は、欲望に負けた「魂」が罪悪をなしている様を描いていま~す。

 「漆黒の闇に罪人を微笑ませ」の「漆黒の闇」とは、仏教用語でいうところの「無明」でしょうね。仏教の哲理を知らないことを「無明」といいま~す。無明だと、実際には苦しい作業にすぎない一時的快楽を真の幸福だと思い込んでしまうため、罪人は微笑んでしまうので~す。

 「宿業が刻まれる!! 今宵も! 今宵も!! 今宵も……」は、翻訳するまでもなく仏教ですね。解脱を阻み輪廻の原因となってしまうのが、宿業(カルマ)で~す。

 つまり漆黒のノート(無明記録)の詩は「輪廻の原因はアートマンの幻想であり、無明のせいでアートマンが幻想だと知らない罪人は、カルマを毎日刻み続けているのだ」と翻訳でき、こうすればそのままお経に採用できそうな内容なので~す。

 「風車」は「輪廻」と同じく輪ですから、「風車のカギ」とは輪廻からの解脱へといたるキーアイテムだったのでしょう。

 カンダタがこの風車のカギを適切に使って首尾よく解脱したのに対し、せっかくカンダタに先んじて風車のカギを入手していたラゴスは、自己愛の塊として「無明」という闇に引きこもっていたから解脱できなかったので~す。

 ラゴスは『II』でも闇の中に引きこもっていたので、ますます無明の中で輪廻を続けている雰囲気が出ていますね。

 『IV』以来のラゴスの武器であるブーメランの、「回転して同じところに戻りいつまでもその運動から脱出できない」という特徴も、ラゴスが解脱をできずに六道輪廻をしている状態を暗示しているのかもしれませ~ん。

 そして「ラゴス」の語源には諸説ありますが、もしも漢訳仏典における「羅睺羅」であった場合、その本来の意味である「釈迦の成道の障壁」が全力で発揮されたといえま~す。

 ラゴスとは、いわばカンダタの失敗例であり、カンダタ以上にKandataなので~す。